憲法記念日を迎えるに当たり集団的自衛権の行使容認に反対する会長声明
本日は、日本国憲法施行から67年目の憲法記念日である。
今、戦後のわが国の平和を支えてきた憲法第9条が、重大な岐路に立たされている。
政府は、安倍晋三首相の私的懇談会である「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)が本年5月の提出を予定している
報告書を受け、憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認する閣議決定を行おうとしている。
集団的自衛権とは、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する
権利を指す(1981年(昭和56年)5月29日政府答弁書)。集団的自衛権の行使を容認するということは、日本が直接攻撃されていない
状況の下で自衛隊が外国に対する攻撃を行うことを認めるということを意味する。
憲法は、前文で平和的生存権の保障を謳い、同第9条において一切の武力の行使・武力による威嚇の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認を
規定し、徹底した恒久平和主義の基本原理を表明している。憲法第9条の下で、わが国が集団的自衛権を行使することが許されると解釈する
ことができないことは明らかであり、だからこそ、「憲法は集団的自衛権の行使を禁止している」という政府解釈が長年の国会審議を経て確立
されてきたのである。
安保法制懇は、憲法解釈の変更の必要性について個別事例を想定して議論しているが、想定される事例に現実味があるのか、現行法や警察権、
個別的自衛権で対処できる事例もあるのではないか、といった点に疑問をなしとしない。安保法制懇の座長代理は、新聞紙上のインタビューで、
「憲法は最高規範ではなく、上に道徳律や自然法がある。(中略)(憲法などを)重視しすぎてやるべきことが達成できなくては困る」と発言
しており(本年4月21日付け東京新聞、同日付け中日新聞)、立憲主義への不十分な理解や、国家権力の濫用への無警戒を背景に議論が
進められているのではないかという点においても、危惧を感じざるをえない。
最高法規たる憲法によって国家権力を制限しその濫用を防止することで人権を保障するのが立憲主義である。憲法改正によることなく、時の
権力者の解釈変更により憲法の基本原則を変容させることは、立憲主義を真っ向から否定し、人権侵害の危険性を高める暴挙であって、到底
許されない(当会の2014年(平成26年)3月11日付け「立憲主義を真っ向から否定する内閣総理大臣の発言に抗議する声明」)。
また、近時の政府与党幹部の発言には、集団的自衛権の行使が認められるとする根拠として、砂川事件最高裁判決(最大判1959年(昭和
34年)12月16日)を挙げるものもある。しかし、同判決は、旧日米安全保障条約の合憲性が争われた事案において、「憲法9条は、わが国が
その平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではない」との結論を採用することの理由を述べる際に、
「わが国が主権国として持つ固有の自衛権」に触れたにすぎず、同判決は、集団的自衛権については何も述べてはいない。したがって、同判決を
集団的自衛権の行使容認の根拠とするのは無理である。何より、同判決以降も、集団的自衛権の行使は禁止されているという政府解釈が確立
されてきたのは前述のとおりである。
憲法前文及び第9条の徹底した恒久平和主義の下では、軍事力によらない平和的方法による安全保障政策がどこまでも追求されるべきである。
集団的自衛権の行使容認は、政府がいかに、「必要最小限度」の実力行使にとどめるとか、行使の場面を「放置すれば日本の安全に重大な影響が
出る場合」などに限るといった「限定的容認論」を標榜したとしても、他国の戦争のためにわが国の自衛隊を地球の裏側にまで派遣する途を
切り拓くものにほかならない。
当会は、立憲主義に反し、将来、前途ある若者を世界各地の戦場に送り出す事態を引き起こしかねない、憲法解釈変更の閣議決定による
集団的自衛権の行使容認には、断固反対する。
2014年(平成26年)5月3日
新潟県弁護士会
会長 小泉 一樹